懐かしい風が吹いていた。煤けた壁と、細い路地。私は車から降りて、この場所の空気
を思い切り吸い込んだ。
「何をしている? こうしている時間も惜しい。中に入って、用意を始めろ」
この場所は私にとって大切な場所だから、という言い訳はお義父様には通用しない。ま
ともにフォルテールを弾けるようになってから始まった、年に一度のこの時間を、私がど
れほど楽しみにしているかは、きっと理解できないだろう。今までも、これからも。
「私の方は、いつでも大丈夫です」
軽やかにそう答える彼女を振り返る。今年はさらに、少しだけ特別だった。私のあこが
れでもあったファルさんと一緒に演奏できるなんて、思ってもみなかったことでもあった。
お義父様には感謝していたし、ここへ一緒に来てくれた彼女にも、感謝をしていた。だか
ら、この場所へ戻ってきた感傷からもすぐに立ち直り、肩のフォルテールのケースをかけ
直して私も答えた。
「わ……私も大丈夫です」
「ならいい」
すでに私の方を見ずに孤児院へと入っていくお義父様の後ろに続く。ファルさんはそん
な私を見て軽く微笑み、先に中へと入っていく。私は一度だけ振り返り、人通りの少ない
路地を眺めた。紐に吊された洗濯物は、所々汚れていたりほつれていたりしたけど、それ
がすごく懐かしくて思わず頬が緩んだ。
ちょっとだけかび臭い匂いのする室内へと入ると、この孤児院の母親でもあるアッズィ
ーロさんがお義父様となにかを話し合っているところだった。話し合いといってもアッズ
ィーロさんの賛美の言葉にただ鷹揚に頷いているだけにも見えたけど。
学院での今年の授業が終わってすぐ、私達三人は、孤児院を巡っては無償で演奏をし
ている。悪意あるうわさ話では、ただの売名行為だと言う者もいた。でも私は、それだけじ
ゃないことを知っている。たとえお義父様にそのつもりがなかったとしても、私達は素晴
らしいことをしている。フォルテールを用意する私の様子を窺う子ども達の目を見れば、そ
れがわかるだろう。その瞳は、様々な憧れに満ちていた。
かつては私も、そんな目でお義父様のつれてきてくださった音楽家の人達を見ていた。
必ずしも、そんな風になりたい、と思っていたわけじゃない。ただ、きれいな歌声とフォ
ルテールによって紡がれる、音楽が好きなだけだった。とくに、あんな風に歌えたらと思
うことは何度もあった。その願いは……結局は叶わなかったけど。
でも、それを残念だと感じるのは、あまりにも傲慢な考えに思えた。私はこうして何不
足なく与えられ、ここでの生活とは比べものにならないほどの生活を得たのだから。それ
を残念に思うことなど、ここにいる子ども達を見ればできそうもなかった。
歌を歌いたい、という願いは、ただのわがままに違いなかった。私にはフォルテールを
弾くことのできる才能があり、それを喜んで受け入れなければならない。
そのはずだった。
――そして、私に歌って良いと言ったあの人のことを、少しだけ思い出してしまった。
「リセさん?」
部屋の中央に置かれていた大きな机はすでに取り払われ、木でできた椅子が綺麗に並
べられていた。そこに座る子ども達の視線に気づき、それからすぐ横で不思議そうな顔を
しているファルさんの視線とぶつかった。
「あ……ご、ごめんなさい」
「ふふ。それよりも、そろそろ始めましょう。待ってるみたいだから」
ファルさんは、笑顔を浮かべ、私にだけ聞こえる声でそう言った。そして、なにもかも
用意が整っていることにも気づかされた。子ども達の椅子の後ろでは、お義父様が幾分
高級な椅子に腰を下ろし、怪訝そうな目でこちらを見ていた。そして、物思いに耽ってい
る間、自分でもあまり意識せずにフォルテールの用意も終わっているようだった。そんな
一連の動作にも慣れてしまっていたようだった。
「で、では、始めます」
私を見る無数の目から視線を外し、ファルさんと向かい合う。彼女とこうして合わせる
のは、学院が終わってすぐ、お義父様に書斎に呼び出された時が初めてだった。それか
らたったの三日間ほどだったけど、時間と回数を重ねて練習をしてきた。タイミングはわか
っていた。
私は彼女と視線を合わせ、小さく頷く。鍵盤に指をかけ、静かに弾き始めた。すぐにフ
ァルさんの声がその音に重なり、美しい旋律を奏で始める透き通るような彼女の声が部屋
にこだまし、ふと見渡した子ども達の顔を見て、私は少しだけ嬉しくなった。そして同時
に、どうして私はこんな風に歌えないんだろうかと……本当に少しだけ、羨ましく思った。
心に浮かぶのは、クリスさんのただただ優しいフォルテールの音だった。
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